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作り手(この場合は映画監督)の頭の中には、作品のイメージが確固として存在している。それは作り手が作品について全知
であるというわけではない。「このシーンはこのため、あのシーンはあれにつながる、そのシーンではそれを表現したい」と
いうような、作品の各シーンに対する意図が作り手にはあるということだ。

中略

それはつまり、作り手は端から作品に対して読解のコード(法則、約束事)を知らされているようなものだ。出来上がった
作品の各シーン、各カットが、そのコードを知らない初見の受け手にとってはどれだけ意味不明に思えるものであっても、
作り手はそこにコードによる補正をかけて読み解くことができる。それが受け手と監督たち作り手の作品読解の差なのだ。
観客にとっては意味不明な映画であっても、その全体像を知っている作り手にとっては、意味不明なところなどないのだ。

中略

どれだけ素晴らしい構想の下に生み出された作品であろうとも、作品として態をなしていないのであれば、それは駄作の謗り
を免れることは出来ない。いくら後付けで「このシーンはこういう意味がある、あのシーンはあれの伏線なのだ」と言い立て
ても、作品の中で効果を表さなかったその意図に意味はない。
作り手には、自らの作品読解に関するコードを意図的に忘れる能力がなければいけない。簡単に言えば、客観的に自分の作品
を見る必要があるということだ。
作り手は、作品が出来上がった時点でその作品の全体の流れを把握しているということでもある。作り手において、作品が
出来上がった時点で初見ということはありえない。また、作り手は製作を通じて、コードを反復的になぞっていることになる。
作品が完成に近づけば近づくほど、作品のコードはより一層作り手自身に刷り込まれていくのだ。
ために、作り手がコードから自由になることはひどく難しい。難しいというよりは、原理的に不可能と言っていいだろう。
だから、作り手が出来るのは、そのコードがいかなるものであるのかということに出来る限り自覚的であることだ。