ひとまず新海自身の言葉を叩き台に、
https://www.famitsu.com/news/amp/202211/17282112.php
↑ここから2つのプロットを抽出したい
「地鎮祭はあるのに、その逆は無い」
「人が使わなくなった廃墟、その場所を悼む物語」
実は公開当初に観客に配布された「新海誠本」という冊子にもこの初着想が強調されていた。
そこではこの着想を“バディもの”や“ロードムービー”という骨格に落としこんだとある
そのため、以下のような現象が物語の構造に起きる

「実は今作は、そのため物語の構造が途中でねじれてしまっている」

初期着想が機能していたのは神戸まで
しかし東京から物語の骨格はねじれ始め、初期の着想は東北地方で全く機能しなくなる
なぜかは明白だろう
・東京には、人が捨てた廃墟や廃屋は地上にいくらでもある
・福島の帰還困難地域でミミズ退治をするわけにはいかない
・大津波で壊滅した沿岸地域は、復興すべき場所(つまり通常の地鎮祭を行うべき場所)であり、人々から放棄され地主神にお返し申す場所ではない
戸締まりをしてはならない場所なのだ

「正面から東北に向き合えていない」
「311に取り組んでいるとは言えない」
「復興について全く考慮されていない」
...等々のおよそほとんどの批判は、この「構造がねじれた物語」という構図の中から自然発生的に生じる

※さしあたってこの様になる。ここから先は宗像草太に視点を移すと、より鮮明になるが、ひとまずここまで