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それを高畑勲が批判して細田が追従している

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n01bf90ab9322

「没入型」の作品とは、観客を、主に主人公の立場に感情移入させ、作品世界に主観的に没入させるタイプの作品のことだ。つまり、観客はディズニーランドのアトラクションを楽しむように、自身を「視点」として作品世界に没入し、アドレナリンを大量放出して、本能的な快感を楽しむ(つまり「脳科学的物理現象」であり、ネットスラングで言うところの「脊髄反射」)。

そして、これと対照的なのが「鑑賞(思いやり)」的態度だ。観客は、客席から舞台を鑑賞するように、一歩退いた(非・同一化的)立場で、作品を客観的に鑑賞する。つまり、主に「知性」を働かせることで楽しむのである。

そして、高畑勳が危惧するのは、(『風の谷のナウシカ』以降の)宮崎駿監督作品や、「セカイ系」と評された新海誠監督のデビュー作『ほしのこえ』などの作品に典型的に示される「没入型作品」が、観客の「知性」や「(知性に由来する)生きる力」の発育を阻害しているのではないか、という問題である。

高畑は、その実例の一つとして「ひきこもり」の増加をあげて、その背後には「没入型作品」への耽溺によって、「何者でもない(凡人でしかない)私」が主観的な満足を過剰に与えられ、言わば「甘やかされ」続ける結果、リアルの自分の立場(現状)を踏まえて、自身を「訓練」をする機会が奪われているのではないかと、問題提起する。

自分が自分の現実をより良く生きるため(成長する)にはどうすれば良いのかと「考える」という行為は、「何者でもない(凡人でしかない)私」という当たり前の自覚(認識)があってこそ、「より強くなりたい・ならねばならない(生き抜けない)」という動機を人に与える。
ところが「没入型作品」によって与えられる「擬似体験的な満足」によって、そうした「成長への欲望」がスポイルされてしまい、「未成熟な弱さのまま」に止まることを是としてしまった人は、まさに、その「擬似体験的に誤った自己認識(主観としての全能感)」と「未熟で弱い私という客観的現実」の齟齬によって、「現実生活からの退却」つまり「ひきこもり」とならざるを得ないのだ、ということである。