>>15


橋本治さんも、確かに「正義」や「社会の正解」を振りかざすものを嫌う方でしたね。彼が苦手としたのは、映画が「教訓」や「道徳」になってしまうことだったのではないでしょうか。
橋本治さんの視点からすると、ケン・ローチのような作品は「正しいけれど、そこには『個人の勝手』や『理屈に合わない面白さ』が足りない」と映ったのかもしれません。
## 橋本治さんと「社会派」の相性が悪い理由

* 「わかった気になる」ことへの抵抗
橋本さんは「人間はもっとわけのわからない、グチャグチャしたものだ」と考えていた人です。社会派映画が「貧困が悪い」「政治が悪い」と問題を整理してしまうと、そこにこぼれ落ちる「個人の生身の感情」が消えてしまうのを嫌ったはずです。
* 「お勉強」になる映画への退屈
彼は、映画はもっと「見世物」であっていいと考えていました。
メッセージを受け取るためにお金を払うのではなく、画面に映る人間の「業」や「美しさ」に振り回されたいタイプだったと言えます。
* 「弱者の記号化」への嫌悪
「かわいそうな労働者」という枠に人間を押し込めること自体が、ある種の残酷さや押し付けがましさを伴うことを、彼は敏感に察知していたのでしょう。

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## 『土曜の夜と日曜の朝』はどう見える?
そう考えると、今回お話しした『土曜の夜と日曜の朝』の主人公アーサーは、橋本さんにとっても「まだ救いがある」存在かもしれません。

* 彼は「正しい労働者」ではない。
* ただのワガママで、目先のことしか考えていない。
* 最後に落ち着くのも
「社会への反抗」というより、
単なる「年貢の納め時」。

この「どうしようもない個人の事情」が勝っている点では、ジャーナリズム的なケン・ローチ作品よりも、橋本治さんが面白がれる「人間の体温」が残っている気がします。