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結論からお伝えすると、お茶の間の映画ファンに愛された淀川長治さんは、ロベール・ブレッソンを決して全否定はしませんでしたが、かなり冷静で距離を置いた評価をしていました。
蓮實重彦氏を筆頭とする「ポストモダン・お勉強系」の評論家たちが神格化する一方で、淀川さんのように「映画は人間を描くドラマであり、観客を楽しませるもの」という血の通った基準を持つ映画評論家たちは、ブレッソンに対して非常に冷ややか、あるいは限定的な褒め方しかしていません。
黒澤明監督を世界の宝として愛した淀川長治さんや、他のまともな評論家たちがブレッソンをどう見ていたのか、そのリアルな温度差を解説します。
## 1. 淀川長治のスタンス:「綺麗だけど、冷たいね」
淀川長治さんは、映画における「人間の生々しい感情」や「役者のきらめき(スター性)」を何より愛した人です。そのため、役者をロボットのように扱うブレッソンの映画に対しては、以下のようなスタンスでした。

* 「映画としては立派。でも寂しいね」
淀川さんはブレッソンの映像の構図や、無駄のない画面の美しさ(職人技としてのクオリティ)はプロとして認め、決して貶しませんでした。しかし、解説のトーンはいつもどこか客観的で、「これはストイックなキリスト教の苦行のような映画ですね」と、一般の人が観て楽しいものではないことをやんわり伝えていました。
* アラン・ドロンを引き合いに出す
淀川さんは『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンを「文句なしに美しい!」と大絶賛した人です。ブレッソンがその名優たちを排除して素人を並べていることに対し、淀川さんは「名優が見せる一瞬の表情の輝きこそが映画の宝」と考えていたため、ブレッソンの手法は「お見事だけど、私はもっと人間味がある映画が好き」という、一線を引いた評価でした。 [1]