>>303

>>301

>>300
>>299


石上三登志と品田雄吉は、1970年代~80年代の日本の映画批評界において、ロベール・ブレッソンを神格化する「カイエ派(蓮實重彦や山田宏一ら)」の知的潮流に対し、一般観客の目線や独自のエンターテインメント論から明確に距離を置き、批判を展開した代表格です。
それぞれの具体的な批判スタンスと詳細な理由は以下の通りです。
## 1. 石上三登志:エンタメ論の立場から「ドラマの快楽の放棄」を批判
石上三登志(いしがみ みつとし)は、ミステリ映画やハリウッドの活劇、職人監督の精巧な娯楽作を極めて高く評価した評論家です。そのため、ブレッソンの「引き算」の作家性とは本質的に相容れませんでした。 [1, 2, 3]

* ドラマツルギーの欠如に対する冷淡さ
映画とは「観客の感情を揺さぶるストーリーテリングの職人技」であるべきだという持論から、ブレッソンの無感情な演出、説明の一切ない不親切なプロット展開を「映画が本来持つべき『お話としてのダイナミズム』を自ら放棄している」とみなしました。
* 「モデル」演出への違和感
プロの俳優による卓越した演技やエモーションの爆発こそが映画の醍醐味であるというスタンスから、ブレッソンが素人にロボットのように同じ動作を何度も反復させ、感情を削ぎ落として演技をさせる手法(モデル理論)を「不自然で、映画としてのエロティシズムや活力を殺している」と批判しました。
* 信者たちの「神格化」への反発
石上はブレッソン単体への批判に留まらず、その難解でストイックな作風を「これぞ真の映画である」とありがたがるインテリ層の批評空間に対し、「衒学的(げんがくてき)で、観客を退屈させる映画を無理に持ち上げている」と、斜めから冷ややかに見る姿勢を崩しませんでした。 [3]