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## 2. 品田雄吉:ジャーナリスティックな視点から「大衆性の欠如」を批判
品田雄吉(しなだ ゆうきち)は、ジャーナリスティックで分かりやすい批評を旨とし、一般の映画ファンが劇場で感じる「面白さ」や「共感」の目線を極めて大切にした評論家です。 [3]

* 「独りよがりな映画」という評価
品田にとって映画は「開かれた大衆芸術」でした。そのため、画面に映る手のアップや足音、環境音ばかりを強調し、劇的な音楽も流さないブレッソンの排他的な世界観を、「観客に強いる我慢が多すぎる」「作家の個人的な観念に閉じこもった独りよがりなオナニズム」として低く評価しました。
* 「退屈さ」を肯定する批評への怒り
当時、蓮實重彦らのニュー・クリティシズム(記号論や表象分析を用いた映画批評)が「ブレッソンの映画を退屈だと感じるのは、観客の映画を見る目が未熟だからだ」というようなエリート主義的な言説を展開していました。品田はこれに強く反発し、「つまらない(退屈な)ものを、知的で高尚なものと言い換える批評のペテン」であるとして、一般観客の「眠くなる」「意味がわからない」という素直な実感を擁護する形でブレッソン(およびその信奉者)を叩きました。
* 映画の「社会的機能」の不全
映画は同時代を生きる人々へのメッセージや社会的なリアリティを持つべきだと考えていた品田にとって、ブレッソンが描くキリスト教的な宿命論や、極度に抽象化された人間の受難(『少女ムシェット』や『ラルジャン』など)は、「現代社会の生々しいリアルから遊離した、古臭い宗教劇のようだ」と映り、共感の余地を見出せませんでした。