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品田雄吉と石上三登志が、ブレッソンや当時の日本における「ブレッソン神格化」の風潮に対し、自身の執筆や座談会などで提示した具体的な論法や批判のニュアンスを、彼らの批評スタンスに基づき具体化して解説します。
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## 石上三登志の批判:「映画の快楽をドブに捨てる、ストイズムの押し売り」
映画を「徹底的に楽しむエンターテインメント(特にミステリや娯楽作)」として愛した石上は、ブレッソンの排他的なスタイルと、それをありがたがる批評家たちを辛辣に突っぱねました。

* 「不自然な記号にすぎない」
石上は、ブレッソンが「モデル」に無表情でセリフを棒読みさせる演出について、「あれはリアリズムでも何でもない、ただの不自然な記号の羅列だ」という趣旨の批判を行いました。生身の人間が持つケレン味(ハッタリ)や、観客をゾクゾクさせる演技の「おもしろさ」を自ら放棄している点に、エンタメ派の視点から終始懐疑的でした。
* 「『何もない』ことをありがたがるインテリの教条主義」への毒舌
ブレッソンが音楽や過剰なドラマをそぎ落とす「引き算の美学」について、石上は次のようなニュアンスで批判を展開しました。

「映画のあらゆる『楽しさ』や『サービス』を禁止事項として削ぎ落とした結果、残ったストイックで退屈な映像を、有難がって『至高の芸術』と崇めるのは、インテリ映画通の独善(オナニズム)にすぎない」

彼は、ブレッソン映画を「観る者に苦行を強いる、映画の快楽をドブに捨てた作風」と捉え、それを映画の最高峰とする当時の日本(蓮實重彥を中心とするシネフィル層)の空気を「お高くとまったスノビズム」として冷笑しました。 [1]