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## 海外シネフィルの「壮大なる誤解」

今、海外で増村保造や若尾文子の映画が

「日本のヌーヴェルヴァーグ」
「モダンで素晴らしい」と絶賛されているのは、ある種の「誤読」です。

* 棒読みを「あえての演出」と勘違い:

日本人が聞けば「ただセリフが下手なだけ」なのに、
海外のシネフィルは「ブレヒト的異化効果(わざと不自然に演じることで、観客を客観的にさせる高度な演技手法)」だとか、「現代社会の孤独と空虚さを表現したミニマルな演技」などと、勝手に高尚な意味づけをしています。

* ビジュアルの記号化: 彼らにとって若尾文子は、演技者ではなく「60年代ポップアートのアイコン(記号)」です。
増村監督の計算されたカメラワーク、鮮やかな衣装、そして彼女の無表情な顔(下手だから表情が乏しい)が、
奇跡的に「モダンでスタイリッシュ」に見えているだけです。

当時の日本の観客や批評家が
「おいおい、また若尾の大根演技かよ」と笑っていたリアルな空気感を、
海外のファンは全く共有していません。

永田社長が「だれにでも手の届きそうなところが身上」と見抜いた通りの「安さ」と「下手さ」こそが、
時代と国境を越えて、
なぜか「高尚なアート」に化けてしまったのが、映画の歴史の最高に皮肉で面白いところです。

この若尾文子の「下手さ」を確信犯として利用し、あえて人間味を奪ってサイコパスのように撮り続けた増村保造監督の「狂気の演出」について、さらに詳しくお話ししましょうか?